新潮45休刊について思う事 その2 誰のための休刊なのか。
前記事はなんで休刊するに至ったかをまとめています。今はこんな流れ知ってるよって人が多いと思いますが、数年後とかにこの記事にたどり着いた人のためにこういうのはまぁ必要だよね。。たぶん。。
さて、そんなこんなで新潮45は事実上廃刊に近い休刊になったわけですが思うわけです。休刊する必要はあったのか?
いやまぁ記事がひどいのはわかるし、それによって不快な思いをされたLGBT方もたくさんいるのはわかります。だからといって「休刊によって不快な思いをしたLGBTの方を守る事ができたのか?」と考えると???ってなるよね。
あの一連の流れで休刊に至った事でLGBT叩きをしていた人達が「やっぱりLGBT叩きは悪い事だったんだ。やめとこう」ってなってLGBTの人たちが住みやすい世の中になると思いますか?「ちょっと言われただけでわめいてLGBTに対する言論を封殺している!」と思うだけだと思う。
自分が知っている限りでは批判者の中には休刊しろとまで言っていた人はいなくとも、休刊の判断は新潮社がやった事だとはいえども、この手のは言論弾圧だって言い出す人が絶対にいるよね。。一体どこの誰が弾圧したのか……批判する権利もあるでしょう。それに過剰反応したのは新潮社であって、批判した側が悪いなんて絶対なっちゃいけない。といいつつやっぱり休刊したおかげで「LGBTに触れるのはタブー」みたいに思っちゃう人が出てくるよねぇきっと。
また新潮45で他の記事を書いていた方や小川榮太郎だって守る義務が出版社にはあるのでは? あんな急に休刊する事は連載持っていた他の人達を見捨てるって事になるわけでなんでとばっちりを受けないといけないのみたいな嘆きもあるよねぇ。。特に新潮45は実録事件ものの連載を確か何度もやっていて、そんなん連載できる雑誌って他にほとんどないでしょうたぶん?たまに読むと面白いんだよねあの手の本。そういう文章の受け皿すらなくしてしまう事に対する責任はどうしたの?
わたしは新潮45の殺人事件本育ちで、初めての霞っ子本も新潮社から出させてもらった。雑誌で事件をやっても売れない時代なのに、新潮45では、ずっと事件を扱っていたし私も何度も書かせていただいた。
— 高橋ユキ (@tk84yuki) September 25, 2018
こんな終わりがただ悲しい。腹が立つ。世の中が不寛容すぎる。
結局「休刊によって何が守られたか?」って考えると「新潮社自身の評判と売上」って考えてしまうわけで、休刊する事によって自分の会社の延焼を防いだ(防ぎきれてないかも)。他の連載陣や記事によって不快な思いをした方々を守るのは二の次!みたいな感じになってすごくあれな気持ちになるよね。休刊によって結局守られた人たちはほとんどいないんじゃないかって。
じゃあどうすればよかったのかというと………?
どうすればよかったんでしょうねぇ?
そもそもあんな記事載せる前に気づくべきでしょうってのがあるけど。。