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中山太郎『日本巫女史』の感想、というか紹介

 

日本巫女史

日本巫女史

 

 巫女の歴史について600ページ近くにわたって記したこの本。東方同人誌や民俗学ネタが好きなこのブログ読者ならきっと面白いと思う。

中山太郎の著作権は切れてるので、この本を全文、章ごとに分けて載せたサイトがあって、わざわざ高い本を買わなくて済むので暇な時に読んでみたら面白いかも?

日本巫女史 - Docs

 

 

「巫女の舞踊は性行為の模倣的誇張では?」(日本巫女史/第一篇/第七章/第六節 - Docs)、「古代に手術をしてたのは巫女では?」(日本巫女史/第一篇/第八章/第四節 - Docs)みたいな強引にも見える推測が結構あってそこから推測を広げるのもまた楽しい。

 

こういうネタ好きなら「人身御供となった巫女」や「原始的な毛髪信仰」 なんかの章だけでもお腹いっぱいになれるよね。。

日本巫女史/第一篇/第六章/第二節 - Docs

我が古代に、人身御供というが如き野蛮事が、民俗として行われたか、否かに就いては、先輩の間に異論もあったが、現在では此の民俗の存したことは、単なる文献や伝説ばかりでなく、考古学的に遺物の上からも証明されるまでに研究が進んで来た〔一〕。私は茲にこれが詳説を試みることは、勿論差控えるとするが、此の人身御供に上げられる女性のうちに、巫女がその多数を占めているのは、抑々如何なる理由に因るのであろうか、それに就いて例の独断を記すとする。

併しながら、是れに関する私の資料は、誠に恥しいほどの貧弱さであるが、先ずその乏しきものの中から、明確に巫女が人身御供となったものを挙げる。駿河国富士郡吉原町の瀬古川の上流に深い淵があり、ここに悪龍棲み年々所の祭りとて人身御供を上げた。或る年関東の巫女七人が京都へ往く途中で、此の祭礼に出会い、七人のうち年若きアジという者が御鬮にあたり、人身御供となり、残り六人は柏原辺の浮島ノ池に投身して死んだのを、土地の者が取りあげて一つの墓に葬った〔二〕。旅人を人身御供にする民俗は、かなり広く行われていたが、それを言い出すと論旨が多岐になるので割愛する〔三〕。陸前国黒川郡大衡村大字大衡に巫女御前社というがある。偶伝に大昔用水堰を作ろうとしたが毎に失敗するので、偶々そこを通りがかりの巫女を捉え、堰柱として生埋めにした。その為めで堰が築かれ社を建てて彼の巫女を祀ったのである〔四〕。常陸国筑波郡菅間村大字上菅間の西北を流るる櫻川に女堰というがある。これも古え此の堰を修理しようとしたが、水勢が烈しいので押し流されて目的を果さず、村民これを神意に問うべしとて巫女に占わせたところ、人間を生杭とすれば必ず成就すべしと告げたので、それではその巫女を生杭にせよと川に投じ、その上に堰を築いたので此の名があると伝えている〔五〕。

 

日本巫女史/第二篇/第五章/第三節 - Docs

毛髪を生命の指標ライフ・インデックスとした信仰は、古くから我国にも存していた。「神代紀」に、素尊が種々の罪を犯して、高天ヶ原を逐われるときに、八束の鬚を断られたとあるのは、即ち此の信仰の在ったことを裏付けるものと見て差支ないようである。降って「孝徳紀」に『或為亡人断髪刺股而誅』を制禁したのも、又た髪に生命の宿ることを意識していた民俗に出発しているのである。現にアイヌ民族では、巫女ツスの呪力は鬢髪の間に深く蔵されていて、髪を剃れば巫術は行われぬものと信じている〔一〕。こうした信仰から導かれて、毛髪には或る種の呪力の存するものとして、崇拝された民俗は、今に様々なる形式で残っている。

 

兎に角に、(一)毛髪が自然と伸長すること、(二)黒い毛が年齢により白くなること、(三)死体は腐ってしまっても、毛だけは永く残るという事などが、古代の人々をして毛髪にも一種の霊魂が宿るものと考えさせたに起因するのである。而して古代人は、異常は必ず神秘を伴うか〔一五〕、又は神秘の力を多分に有しているものと併せ信じていた。ここに頭髪なり、鬚髯なり——殊に陰毛なりが、異常に長いことを、一段と不思議とも考え、神秘力の多いものとも考えるようになった。巫女の七難の揃毛は、此の信仰から発生し、これに仏法の仁王信仰が加って完成されたものである。

 

口噛み酒の話なんかも載ってる

日本巫女史/第一篇/第八章/第四節 - Docs

我国でも薬の初めが酒であったことは既述した。然も此の酒が、刀自と称する巫女によって造られることは〔六〕、又た我国における古き習俗であった。神楽の「酒殿歌」に『酒どのは今朝はな掃きそうれりめの、裳ひき裾ひき今朝は掃きてき』とあるのは、その徴証である〔七〕。而して古代の造酒法は、即ち噛み酒であって、その噛む役は、主として女性がそれに当っていたのである。「大隅国風土記」逸文に、

一家水米を設け、村に告げめぐらせば、男女一所に集りて、米を噛みて酒糟へ吐き入て、ちりぢりに帰りぬ。酒香いでくる時、又集りて、噛みて吐き入れし者ども是を飲むを、名づけてくち噛みの酒と云う(大岡山書店本)。

とあるのは、よく古代の造酒法を伝えたものであって、琉球の各地方では、近年まで神に供える酒だけは、村内の処女(経水の無い者に限る)が集って噛んで造ったものである〔八〕。更に琉球では酒のことを「おくすり」と云っているが、これは即ち薬の意で、別に「むしやく」と称するのは、噛むの意であると伝えられている〔九〕。是等に由るも酒が巫女の手で作られ、専ら薬として用いられた事が知られるのである。「万葉集」に『味酒ウマザケの三輪のハフリが斎ふ杉、手触れし罪か君に逢い難き』とある短歌を始めとして、三輪の冠辞に味酒の語を撰んだのは、三輪を酒の実湧ミワく(噛んだ米が唾液中の酸素と化合して、沸々としてくこと)に思い寄せたものではあるが〔一〇〕、然もその米を噛んで酒を造ったものは、三輪社に仕えた巫女の仕事であった。

ただ此の場合に考えて見なければならぬ問題は、古代にあっては、神を祭るとき以外には、殆んど絶対的に酒を飲むことを許されていなかったということである。それは恰も、種族を異にし、民俗を別にしているアイヌでは、現在でも酒を飲むときは、如何なる場合でも、先ず神飲カムイノミと称する儀式をして、神に供えたお流れを頂戴するという信仰の下に飲酒するのを常礼としているが、我が古代人の酒に対する信仰も、又これと相択ばざるものが存していたのである。「仲哀記」に神功皇后が皇太子誉田別のために『ち酒をみて献らしき』とある待ち酒は〔一一〕、まちの語に祭ることと、占うこととの二義が含まれていて〔一二〕、酒を飲むことは、神を祭る場合に限られていたことを示唆しているのである。而して後世の記録ではあるが、延喜の「玄蕃寮式」に『凡新羅客入朝者、給神酒』と載せ、更に此の神酒の材料となるべき稲は、大和国の賀茂意富、纏向倭文、河内国の恩智、和泉国の安那志、摂津国の住道、伊佐見等の各神社より出させて是れを住道社に送り、別に大和国片岡、摂津国広田、生田、長田などの神社より出せるものは生田社に送り。共にその社の神部をして造らしめたとあるのも、又この間の消息が推知されるのである。

而して、かく酒なるものが重く扱われていたのは、その酔心地が神の作用によるものと信じていたに原因することは言うまでもないが、更に此の酒が薬剤として用いられたのは、神に供物として献げた余瀝を飲むために、一段と効験があると考えたからである。誰でも知っていることではあるが、奈良の正倉院に砂糖若干が秘蔵されている。これは奈良時代にあっては、砂糖は貴重品であったと同時に、又た大切なる薬剤なのであった。今日でこそ砂糖は苦もなく手に入れることが出来るけれども、僅に二百四五十年前の江戸期の初葉までは、甘味といえば、甘草の煎じ汁か、柿の甘みより外には無かったことを知れば、一千余年を隔てた奈良時代の砂糖の尊さが、想いやられるのである。薬用としての酒も、又この事由と同じものと見るべきである。

後世になると、神に供えた総ての物が、医療的呪術を有するように考えられているが、古代においては、その供物が果して如何なるものであったかが判然しないので、それを明確にすることが困難なのである。勿論、祝詞を見ると海の物、山の物、野の物などが供えられているが、これは単なる供物ではなくして、寧ろ神に対する礼代ヰヤジリと思われるので、茲には姑らく省略に従うとした。

 

 「巫女は死体を解体する職務があったのでは?」みたいな考察の章ももっともらしく書かれてるからそれっぽく思えてくる。ベースはほとんど伝承で文献がほとんどないのに

日本巫女史/第一篇/第七章/第二節 - Docs

私見によれば、古く我国では屍体を葬るときは——勿論、その悉くではないが、に辻占の条に挙げたような変死を遂げた者の屍体は、これをその儘に葬ることなくして、屍体を幾つかに斬って埋める民俗が存していたのではなかろうか。記・紀の神代巻に、諾尊が迦具土神を三段に斬ったとあるのは、諾尊が此の神のために冊尊を喪うたという単なる憤怒の余りではなくして、かかる悪神は幾つかに斬って葬る習わしのあったことが、神話に反映したのではないかと想われる〔五〕。学友内藤吉之助氏が「史学」第三巻第七号に掲載された「喪かり考」は、此の問題に対して、大なる暗示を投じているものであって、私もこれを披閲して、尠からず教えられた所が在って存したのである。而して内藤氏に従えば、喪がりとは、従来の国学者が説けるが如き——殯宮の意味ばかりではなくして、此の間において、屍体に何等の処置が加えられたに相違ない。されば、喪かりのかりは、必ずしも喪あがりの約語でなく、離すことをさかりと云うた。そのかりの意味であるとて、言外に屍体に加えられた処置なるものが、私が茲に云う截断と同じものであることを論じている。実に卓見として敬服させられたのである。

我国の古代に屍体を幾つかに截って埋めた民俗の在ったことは、伝説として各地に存している。こう言うと、それは支那の蚩尤伝説の輸入であると軽く斥けられるかも知れぬが、併し私としては、必ずしもそうだと許りは思われぬ点がある。茲に二三の伝説を挙げて、之に対する私見を述べるとする。屍体截断の最古のものとしては「崇峻紀」二年秋七月の条に、物部守屋の資人捕鳥部万の屍体を梟する状況を記して『河内国司、以万死状、牒上朝廷、朝廷下符偁、斬之八段、散梟八国』とあるが、それである。若し私をして、想像を逞うすることを許さるるならば、国史に載ったのは、僅に此一事だけであるけれども、国史に漏れた此の種の事実が、他に存したと云っても、決して無稽だとは考えられぬ。

 

まだ、此の外にも、支解分葬の伝説は各地に存しているが、類例は別段に多きを以て尊しとせぬから他は省略するも、兎に角、我が古代で特種の屍体を截断した民俗のあったことは、事実として認めても差支ないように考えられる。勿論、此の事実の発足点が、怨霊を恐れた信仰に由来していることは言うまでもなく、時代の降るに従って、此の信仰は更に熾烈の度を加えて来たのであるが〔一一〕、後世になれば、流石に支解分葬というが如き野蛮の態度に出づることもなく、漸く往来の頻繁なる道の辻に埋めて、悪霊の分散を防ぐ程度になってしまったが、さて是れとても、その源流に溯って見るときは、此の支解の信仰の派生であることが知られるのである。

而して是等の惨忍なる仕事——即ち屍体を投棄したり截断したりする役目こそ、当時の巫女の職務のうちでも、殊に聖職として考えられていたのである。アイヌ民族に行われたウフイの主役は老婆であって、鎌を揮て妊婦の腹を割く有様は、凄絶を極めたものだと伝えられている。琉球の洗骨も、これに従事する者は女性に限られていて、然もこれとても凄絶眼を掩うばかりであったと云われている〔一二〕。優柔であるべき筈の女性が、此の種の任務に服することは、後世の知識から云うと、頗る矛盾していて、殆ど在り得べからざるように考えられるが、更に巫女史の立場から見るときは、これは一種の性の倒錯であって、女子に多くの神性を認めた時代においては、かかる惨忍事は女子の役目として、社会も認め、また女子自身もそれを許して来たのである。猶お巫女の性の変換及び倒錯に就いては、後章に記すところがある。

 

他にも通常あまり深くは追求されない巫女に関するネタがかなりはいってるよ。まぁ小ネタを断片的に探して読む自分の読み方よりも、全体を読み通して巫女について考えるのが本来の読み方の気もするけどね。。でもその読み方って疲れるしねぇ。。