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『新カラマーゾフの兄弟』は誰のための本なのか

 

『カラマーゾフの兄弟』の続編でもパロディでもない正当な完結編、っていう文句だけであたまがいたくなるような『新カラマーゾフの兄弟』。

いや、そこらへんの二次創作でこういうのをやるならきっと”面白い事やってるなぁ…”で済ませたのだろうけどもよりによってカラマーゾフ誤訳で色んなところが叩かれてる翻訳者が書いてるんだものね…自分は古典新訳文庫版をまともに読んでないけども5巻部分をエピローグちょっと+本編以上に膨大な訳者解説として売っているところをちらっと見てこの訳者は……と思いましたね。まぁ、ソローキンの『愛』やプラトーノフの『土台穴』の翻訳を国書で出してるところとか見ると叩きずらいところもあるんですけどね。。

カラマーゾフ誤訳問題については検索すると大量に出てくるのでここだけ貼っておきます

亀山訳「検証」

 

まぁ『新カラマーゾフ』については色々な人が推薦文とかを書いているので”ひょっとして面白いのかも?”と思いましたが、よく考えると”ただの付き合いで推薦文を書いてるだけじゃないの?”って思うような面子ばかりだったような…。というか改めて沼野充義の書評を読むとどこにも面白いとは書いてなくて、単にロシア文学翻訳者繋がりで書評を書きました感が出てて面白い。というか読めば読むほど婉曲的につまらないって書いてあるようで……。大人の付き合いってこわいですね(うがった見方)

 

沼野充義・評 『新カラマーゾフの兄弟 上・下』=亀山郁夫・著

本書は、神話的原典と、それを現代日本で換骨奪胎した物語本体と、私小説的逸脱の三層が絡み合うというユニークな構造になっていて、その意味では原作を離れた(超えた、とは言わないが)、独自の作品なのだ。

 

 予言者ドストエフスキーが描き出した人間の救いがたい激しい情欲、金銭欲から、信仰、神の問題まで、すべてがここに引き継がれているのだが、そのすべてが十分に深く扱われているとは言いがたい。 

ただし、新たな試みが必要であることを雄弁に示したのは、本書の大きな手柄だろう。かつて、アメリカの作家カート・ヴォネガット・ジュニアは自分の小説の登場人物に、「人生について知るべきことは、すべて『カラマーゾフの兄弟』の中にある。だけどもう、それだけじゃ足りないんだ」と言わせている。その通り。だからこそこの小説が書かれなければならなかったのだ。

 

そもそもカラマーゾフの兄弟を現代日本に置き換えて再構築するって60年以上前に埴谷雄高が『死霊』でやっててやりきれなかったテーマだよね?(あれを今読んでも評価出来るものじゃないよね……っていう評価です。『死霊』はそんな小説ないだろって意見を言われそうですが)。埴谷雄高みたいな大家ですら書ききれなかったテーマを翻訳者あがりが小説にしてうまくいくわけないよね……。でも誰かが否定的な感想を書かないといけない。ひょっとしたら傑作かもしれないし…。というわけで読みました。という長過ぎる前フリ。

 

 

新カラマーゾフの兄弟 上(上・下2巻)

新カラマーゾフの兄弟 上(上・下2巻)

 

 

いきなりドストエフスキーらしい作者を出して、主人公についてまず語り出す。

ここまでならドストエフスキーの小説で見たような形式なのでオマージュとして楽しめる。でも”日本に置き換えて新しく書き直しました”みたいな事を語り出すのでもう数ページ読んだだけであたまが…

 

厳密にいうとこの作者がドストエフスキーだとはどこにも書いてない。でも”わたしがかつて書きかけ、未完のまま放り出した小説は、現在『カラマーゾフの兄弟』の名前で秘広く知られている”という記述があるし、この作者はドストエフスキーかそれに近い何かと思ってしまうよ。その一方でこの作者は”わが国で起きた事件”として地下鉄サリン事件や阪神大震災を語っている。

 

…………作者はドストエフスキーと自分を重ねて投影しているのだろうか? 考えるだけでもうあたまがいたくなってしょうがない冒頭のまともな解説を求めます。

 

さて、こんな冒頭から変わって本編がやっと始まります。ロシアの話ではなく、95年の日本に置き換えてるのでアリョーシャが活躍しだす続編、ではなく日本版カラマーゾフの兄弟が語られます。というわけで、3兄弟の話が始まるかと思えばKの手記というこれまた作者を投影したとしか思えないKというキャラが公安にマークされたところから始まるんですよね…。

このKは最初から最後まで重要ならキャラとして存在していて、3兄弟+1人による父親殺しの事件の犯人を探していくミステリー小説風味にもなっている。そんなの犯人が誰だったかなんて『カラマーゾフの兄弟』原典を読んでたら分かるでしょう? という読者の突っ込みすら無視されてこの種の謎解き要素はところどころに挟まっていて、一体何が書きたいんだか……、確かに父親殺しは原典においての重要なテーマではあるけども、”だったら原典読めばいいじゃない?”ってなるじゃない?

 

まぁこんなKの手記の部分を抜いたらカラマーゾフ家→黒木家に置き換えて父親殺しの事件を上手く語っている小説、というよりも原典では語られなかったような兄弟達の要素をこれでもかと語っているので、ここらへんは原作愛のなせる業だと思います。特にスメルジャコフがモデルの幸司については原典以上に深みのあるキャラになってるんじゃないのかな…と思う。まぁ大抵行末はどの兄弟も似たような事になるんですけど、一応救済が用意されている。気もする。アリョーシャがモデルのリョウが事件解決?後にどうなるか、という原典では語らずに放置された部分についても一応語っているしね。

この部分だけで構成してくれたのならカラマーゾフ並の大傑作とは言えずとも、ドストエフスキーフリークが書いた佳作、みたいな扱いで楽しめた。のかもしれない。

 

けど本編においてかなりの分量が割かれているKの手記がやっぱりね…

このKは何か選ばれた人みたいで、ところどころで夢みたいなものを見る。白昼夢の中でドストエフスキーと会ったり、お告げを聞いたりしてそれがこの先の展開へのヒントにもなっている。一応民間療法を受けてからこんな事が起きる。という論理立てはあるもののこれがカラマーゾフの何の関係があるのかと……

一応原典でも幻視するキャラは出てきたし、兄弟達がモデルのキャラも幻視に近い何かをする描写はある。でもそれは兄弟達がモデルだからいいわけで、何の関係もないKみたいなキャラがこんな事をやってキャラクター達に割り行ってストーリーに割り行って、一体何がしたいのかと…。そこまでして作者自身がカラマーゾフの世界に入りたかったのだろうか? 二次創作レベルなら偏狭的なカラマーゾフ愛のある作者さんで流せたけども商業出版の小説でこんな事するなんてやっぱりおかしいとしか思えないよ。

”カラマーゾフの兄弟を現代に置き換えました、それだけでなく自分がモデルの登場人物もそこに入れますね”ってとか誰か止めなかったの…としか。

 

あと1995年の日本を舞台にしているので宗教団体が重要なテーマにもなっている。これは上手く料理すれば面白かったとも思うけども、結局H教団の方は何のために出てきたのか?ってレベルで終わったのでなんだかなぁという感じでもある。

 

結局作者のカラマーゾフ愛、ドストエフスキー愛が全面に出すぎた本なのだと思う。兄弟達がモデルのキャラへの救済措置も自分がモデルのキャラを出すのもよっぽどカラマーゾフ好きじゃないとできない描き方だろうし。でも、これを誰が楽しむのかというと……。Amazonレビューにあるように奇書としてなら楽しめるのかもしれない。カラマーゾフ愛に溺れすぎた作者の怨念みたいな小説として。それ以外に楽しみ方あるのかなぁ…。

結局、これ読むなら『カラマーゾフの兄弟』をまず読めばいいじゃない?ってなるしね。