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エンデ『愛読者への四十四の問い』に答えてみたよ。

Twitterのエンデbot(https://twitter.com/#!/Michael_Ende_jp)で一部だけが引用されてたまに投稿されるこの文章。これは一部だけ読むのではなく、全部通して読んで答えるべき構成になっている(最後の質問なんか特に)と思うので、ここに回答を書いてみたよ。暇なんでしょ?とかはきかないでください。

Twitterでは「親愛なる読者への44の質問」 って訳になってるよね。このTwitterの訳の方がすき。
Twitterのエンデbotが引用しているのはおそらくこちらの訳。(これは未読なのではっきりわからない)

M・エンデが読んだ本

M・エンデが読んだ本

こらから引用するのはこちらの訳。まぁ手元にあるのが全集版しかないのでこっちからの引用です。
エンデ全集〈18〉エンデのメモ箱(上)

エンデ全集〈18〉エンデのメモ箱(上)

エンデ全集〈19〉エンデのメモ箱(下)

エンデ全集〈19〉エンデのメモ箱(下)


あなたがこのような本を編むとしたら、なにを基準にして選びますか?
 
自分のトラウマ、人生を変えたものとかをとりあえず並べてみて、そこから重要そうなものを抜き出して編むと思う。

あなたの人生を変えた本や、本のくだりがありますか?

誰だって、今のぼくと同じように、狭い既知の世界に閉じ込められていることに変りはないのだ。坂のカーブの手前、地下鉄の駅、コーヒー店、その三角形はなるほど狭い。狭すぎる。しかし、この三角形が、あと十倍にひろがったところで、それがどうしたというのだ。三角形が、十角形になったところで、何処がどう違うというのだ。
安部公房『燃えつきた地図』)
人生を変えた本はきっと他にもあるはずなんだけど、選ぶならとりあえず。

人生の問題に直面していて、ぴったりのときに、ちょうどぴったりの本を手に入れ、ぴったりのページを開き、まさにぴったりの答えを得たとすれば、それは偶然だと思いますか?

そういう時はなんか運命みたいなものを信じてしまう。そういうときは。

天使や悪魔や奇蹟について聖書は語りますが、それでは聖書はファンタジー文学に属するのでしょうか?

そこにあるのが神の言葉とされていたとしても、誰かを救う言葉だとしても、僕は聖書をファンタジー文学として扱ってしまうよ。パウロの手紙とかは別として。あれはファンタジーでもなんでもなくただ純粋に人を救うような言葉だけが書かれている。

トルストイが書くモスクワ、フォンターネが語るベルリン、モーパッサンが描くパリ、これらの都市は現実にあるのか、あるいはそもそもかつてあったのでしょうか?
 
上手く言い表せないけど、現実にあったところだと思っている。なにもないところからトルストイが書くモスクワなんて生まれない。だからきっと現実。

ゲーテが親しく呼びかけた月(おんみはふたたび茂みと谷をみたし……)(「月に寄す」)と、あの二人の宇宙飛行士が歩きまわった、泥や埃から成る塊は同じ一つの天体でしょうか?
 
上記と同じような答えになるけど、同じ天体。どうとらえるかの違いにすぎない。

戦争の残虐さからなにも学ばず、自分も変わることなく戦争を体験した者に、戦争の残虐さの叙述がなにかを教えたり、そればかりかその者を変えることができるでしょうか?

どんな表現であれ、なにかしらの表現は人を変えることが出来ると思っているよ。戦争に限ったことではない。変わらなかったのはただ単にそういった叙述に出会えてないだけ。

千人の苦しみは、一人の苦しみよりも大きいのでしょうか?

千人死ぬのと一人だけ死ぬのとどっちかを選んで下さいと言われたら一人死ぬ方を選んでしまうよね。それが自分だったり大事な人だったりだったらどうなるかはその瞬間までわからないけど。。僕はそんなときに人間を割りきって”何人”と数えられないような気がする。たぶん。

一平方キロメートルの赤い面は、一平方メートルの同じ色の面よりももっと赤いでしょうか?

赤いよ!大は小を兼ねる!(なんかちがうような)


人の意識にある世界”自体”を想像するには、少なくとも一人の人間が必要ではないでしょうか。つまりそのような世界を想像する人間が?
 
必要。。なのかな。。これはよくわからない。いないといけないような気もする


現実に対してわたしたちがもつ観念が変われば、現実も変わるのでしょうか?

みんながみんな”同性愛はよくない”と思えばなんかタブーみたくなるし、”別にいいんじゃない”って思えばタブーにはならないじゃない。その変化の過程を直接見ているわけではないけど、変わるはず。


それを表す言葉がまだない、そのようなものを考えることができますか?

単語としてまだない、って意味なのかな? これ。ちがうよねたぶん。それならいくらでも言葉の組み合わせで作ることができる。
”言葉の組み合わせでも作れないような言葉”って解釈を僕はする。
それなら僕の想像力ではとても思い浮かばない

言葉がまだ話せず、したがってまだ考えることもできないとされる幼児が、言葉に意味があるとわかるのはどうしてでしょうか?

どんな行動ですら初めには幼児からしたら意味不明なものばかりなはず。そこからなんだかわからないけど、いろんな人と接したりして意味あることを見つけて成長していく。言葉だってその一部なだけ。

「すでに」とか「さっき」という語の意味を説明できますか?

原文ではどうなってるんだろう?
「すでに」 
もう行為が終わってしまったこと
「さっき」
ほんの少しだけ前。行為の終了の有無は関係なし

詩を”理解した”というとき、それはどのようなことなのでしょうか?

共感なり感動なりできたとき。それ以上は僕は自分に求めないよ。

百年、二百年後の人たちが、わたしたちがもつ世界観に、信じられぬと首をふることは考えられることでしょうか?

僕は二百年前にネットも音楽も映画もろくになかったなんて考えられないよ。


すべては無意味だと、人に説きつづけてやまないニヒリストを駆り立てるものは、何なのでしょうか?

自分への劣等感から逃れるために世界まで否定したくなるんですよ。全てを否定すれば自分がくずなのも許される気がして。

上手にキリストを描く画家は、その画家自身が一種のキリストであるべきだと期待するのは正しいでしょうか?

キリストをどんな風に描こうともその画家はキリストにはなれないよ。絵だけで何者かになるなんてできない。

恐ろしい拷問死を、美しい絵、美しい音楽、美しい詩句で表現するとき、なにがそれを正当化するのでしょうか?

拷問自体、否定されるものじゃないじゃない。。恐ろしいほどそれ自体が美しいんだよ。
とかいうとあれだけど、実際そうですよね。。。僕の感覚だと。

美は客観的事実なのでしょうか、それとも主観的体験なのでしょうか、それともこのように問うこと自体が、そもそもまちがっているのでしょうか?

主観的なものだよ。なんとなく。これはアーティストの人も考えていることなのでは。って思う。しらないけど。

両の手を打ち合わせたとき、片方の手はどのような音を発するのでしょう?

ぱあん!(とっさにおもいうかんだものの感覚を僕は信じます)

磁針が常に北を指すようにする力は針にあるのでしょうか、それとも地球にあるのでしょうか?

地球


おおぜいの人が同じ本を読むとき、本当にみんな同じものを読むのでしょうか?

そこに想像される世界は違えども、きっと同じ本だよ。

読者と本のあいだに生じることは、どこで起こるのでしょうか?

他のことを全て忘れて、本の世界にだけ没頭できた時。この感覚が好きだから僕は読書を続けられる。

精神なくして精神を否定できるでしょうか?


精神がすでにある僕には可能かどうかはっきりと分からないけど、きっとできるのでは。
計算によって全て行動するコンピュータ人間が生きるSFだってあるはずだし。そこに精神はないし、そんな未来があってもいい。

長編小説を書くことはもうできないと、長編小説なみの分量の本を書くのはどうしてなのでしょうか?

切り詰められないんでしょうね。どうしてもやめられないことってあるじゃない。

”全知の語り手”ではないと主張する作家たちが書く物語を、だれが考えだすのでしょうか?

どんな物語でもそれを作るのは本人だよ。僕は作家じゃないからこう言えるのかもしれない。

詩的虚構と嘘のちがいは何なのでしょうか?

人に感銘を与えられるか与えられないか。

芸術は省略にあるとすれば、最高の芸術はなにもしないことではないでしょうか?

前提が間違っているはず。芸術は省略なんかではない。はず。

そもそも読者に詩人を理解する義務があるのでしょうか、あるいは詩人に読者が理解できるように書く義務があるのでしょうか?

ないよ。すきなように書いてすきなように読めばいい。答えなんてない方がたのしい。

「木」という語をモールス信号、ゴシック文字、展示、そして中国の表意文字(漢字)で見るとき、そしてこれらの文字を知らないとき、まったく異なるものだと思わざるをえないのではないですか?

そうですよね。。僕はアラビア語で木、とか見てもきっとわからないよ。
どうでもいいけどこれは子供のころたまに考えてた気がする。全く新しい記号みたいなのをつくろうとかそんな妄想。


小説でカフカが言わんとすることが、評論家がその小説を解釈して述べることであるとすれば、なぜカフカはそれをはじめから書かなかったのでしょうか?

評論家なんてろくにあてにしないほうがいいよ。たまにすごい評論に出会えることはあるけども。。カフカ関連ではみたことない気がする。。

本に登場する人物は、その本が読まれないとき、なにをしているのでしょうか?

読者への罵詈雑言でも言っているんじゃないですかね。。読んでもらえないから。

美しさを願うとは、うわべを美しくすることを願うことでしょうか?

うわべも中身も環境もなにもかもだよ。どれか一つでも欠けていたらだめ。

平均的人間というものに出会ったことがありますか?

ない!
『20世紀SF』あたりで平均的人間の話を読んだ気がする。平均値は耐えず変わるので、どんな人間でも”平均的人間”でいられるのはほんのわずか。みたいな話。タイトルなんだっけ。。

ドイツ、イギリス、フランス、スペイン、イタリアの全文字が二十六文字のアルファベットから成っていることは、実に不思議なことではありませんか?

そうなんだ。。でも方言みたいなものって考えればいいんじゃないの。。他の国の言語についてはうまく考えられない。

カバラが教えるように、神が二十二の文字と十の数字でこの世界を造ったとは考えられるでしょうか?

漢字、ひらがな、かたかな、その他の文字で生きている僕にはちょっとカバラの世界観は理解しがたい。おもしろいとは思う。

重力を克服するダンスは重力なしにありうるでしょうか?

ない。と思う。

思考とは脳のなかの電気化学的プロセスにほかならないという考えは、脳のなかのどのような電気化学的プロセスが考えたのでしょうか?
 
思考するところじゃないの。。たぶんそこに近いところ。

現実が”実際に作用すること”と関連があるとすれば、夢はどのような現実を持つのでしょうか?

どこかでほんの少しだけ現実とつながっている。僕は夢をそう捉えているよ。オカルトめいているけど、夢で聞く言葉をたまに真に受けたりしてしまう。僕は夢で誰かの言葉を聞くこと自体少ないけれども。。

人を病や健やかにする本があるのでしょうか?

あるよ。聖書なんかは人を病ませたり健やかにし続けてきた本なはず。

だれもが人生で妖精から三つの願いがかなえられるのを、あなたも見たことがありますか?

ない。たとえあったとしても嫉妬で僕はそれを記憶から抹消する。

むずかしいこと、それとも楽なこと、むずかしいのはどちらだと思いますか?

むずかしいこと!

本当に問いは四十四問だったか、数えなおしてみますか、それともわたしの言葉をそのまま信じますか?

僕はエンデって作家の言葉を信じるよ。言葉に説得力がある作家だと思う。そして言葉の力を信じすぎな作家とも。
僕はここまで言葉の力を信じることはできない。そんな回答になったような。まぁこんなん読む人いないだろうけど。